日本海中部地震の遺物2015年02月24日 14:20

昨日、今日と人間ドックに入っていたが昼で帰って来たので、午後から散策。今日も大開浜に行った。
今日は、先日も行ったこの場所から左側に進む。この写真左端の奥に根株が3個あった。
この松林の根株には似合わない。クロマツの太さとまるで異なる。
これは日本海中部地震の際にこのクロマツ林の中まで流れ込んだ遺物である。
一番大きいのはこれ。測ってみると、
一番長いところで1メートルあった。
次に大きいのはこれ。これも太い。


それに対し、この付近のクロマツの太さは直径20センチが最大だ。

別の場所にはこういう根株もあった。

これも巨大だ。メジャーをあててみたが測りきれない。
根株の上を松葉が覆っていて測るのが難しい。150センチくらいはある。

昭和58年の日本海中部地震の時にはすぐ近くの向能代地区(落合地区)への津波の浸入を食い止めた風の松原のクロマツ林だったが、東日本大震災では高田松原に残された奇跡の1本松のようにクロマツ林は壊滅的な打撃を受けた。
そのため、「根こそぎ抜け、凶器となる」といった極論も現れた。
それは、朝日新聞2013年4月27日の土曜版Beに掲載された「磯田道史の備える歴史学」である。(下の記事は同月の縮刷版から引用した)
この記事は、当初神奈川県藤沢市に住んでいた友人の奥様からfaxで送られてきた。すぐに電話もあり「新聞にこのように書かれているが、能代はクロマツを切らなくても大丈夫か」というものであった。
 私は、能代では日本海中部地震の時に、あの松林のおかげで向能代(落合地区)が助かった。松林の近くには、奥さんも知っているように大きな総合病院があり、あの病院が被害を受けていれば大変だったろうと話した。
 大開浜砂防林については鈴木重孝氏の「津波から落合地区を救う」という文章が、地震のあと昭和58年7月13日と15日の2回「北羽新報」紙に掲載されている。ブログでは紹介が難しいので、後から別のホームページ等で紹介したい。
 なお、磯田道史氏は『武士の家計簿』などの著書があり、「備える歴史学」は朝日新聞土曜日の「Be」に2013年4月6日(土)から2014年9月27日まで毎週のように掲載された。


ところで、昨日と今日、人間ドックで検査を受けたのは落合地区の総合病院ではなく、この病院。
宿泊したのはこのホテルだった。

大開浜の様子(3)2015年02月24日 15:20

まず大開浜の先端まで行こうと、堤防を通り砂浜を歩いた。
ここが砂浜の先端。午後3時を過ぎると砂浜に映る影が長くなってくる。
これは木の根っこだ。

この木の海側に回り込んで、松林の米代川の端を撮影。
私の影が少し写ってしまった

白神山地の方を見ると向こうに向かって歩いている人が1人。右側にドームのように見えるのは、旧落合海水浴場の施設。

南側を見ると2本の風車の間に火力発電所の煙突が見える。


松林よりも海側には波消しブロック

このブロックは平成20年度に設置
また私の影が写った。

ここが大開浜へのゲート
また私の手が写っている

15:36 これが昭和59年に設置された暴風柵。日本海中部地震の翌年の設置だ。
先ほどのブログ「日本海中部地震の遺物」はこの暴風柵よりも陸地側にあるから、地震で運び込まれたことがハッキリしている。

この柵より海側のクロマツ。

15:52 ここが昭和59年度の暴風柵の北の端。
このフェンスの長さは1400~1500m位か?
更に道路が続いていたので、進んでいくと、

この先に木製の柵を見つけたので上ってみると

柵の間にカメラを入れて向こう側を撮影すると旧落合浜の駐車場が見える

フェンスはこのようになっていた

入口近くまで戻って来てから1メートル間隔の松林を撮影すると
これは北側を見て撮影、ここからでも1000メートルも続くのだ。

こんどは南側を撮影。こちらは400m位奥行きがある。