思い出の万里の松原2017年01月31日 11:23

昨日、テレビ番組を紹介する中で、番組で紹介された風の松原の画像を示した。「松原」のはずなのに画像の緑は松よりも広葉樹の方が多い。昨日示した4枚の写真の4枚目、幹が黒い木、斜めに曲がって立っている黒い幹の木がクロマツだ。真っ直ぐ立っている幹が白っぽい木はほとんどが広葉樹。

そこで2011年10月29日に能代市マイクロバスで酒田市の「万里の松原」を視察した時の写真を紹介したい。写真が50枚以上になると思うので数日かけてブログを作ることになると思う。

この看板は「万里の松原」に設置されていた「生活環境保全林整備事業」を説明した酒田市が設置したもの。この説明を読むと、風の松原よりも規模が大きい。能代市発行のパンフレットによると、
「風の松原」は日本最大規模を誇る松林の愛称です。東西最大幅1km、南北総延長14km、面積が約760haで東京ドーム163個分もの大きさです。人の手で植えられ。育てられてきた700万本ものクロマツは、厳しい海風や飛砂から能代のまちとそこに住む人々を守り続けています。
と書かれていますが、この看板によると庄内海岸林は、
庄内海岸30kmにわたる幅約1km、高さ25m~60m、面積にして約830ha大砂丘地帯を覆い、激しい冬の季節風と飛砂に対して防壁として立ちはだかり、庄内地方に住む人々を守っている
と書かれている

当日は、風の松原に守られる人々の会が主催し、会員約20数名が参加した。
バスはほぼ満員だった

高速道路を利用し
途中、自動販売機も何もないパーキングで休憩。
当時は東日本大震災のあとで、風車の林立は珍しかった
ようやく酒田市に入る
途中、道路工事等のためコース変更を余儀なくされたが、ようやく駐車場に到着。
出迎えてくれたのは赤い帽子の人たち 「万里の松原に親しむ会」



最初の説明は、万里の松原に親しむ会の人々の努力によって復元された「奥の細道古道(旧秋田街道)」を歩くこと
この画像をクリックすると画像が拡大されて文字を読むことができます。
説明している場所を遠くから撮影。クロマツが立派だ。
クロマツの下の道路を歩き始める




松林には雑木は少なく、遠くまで見通すことが出来た。地面も青々とした能代とは異なり、砂地がみえる


古道を抜けて少々広い空き地に出ると立ち止まって説明を始めた

このような空き地があるとクロマツの植林をしているのだそうだ

記憶が薄れてきたが、ここはクロマツの大きさからすると前年か前々年に植林した場所のようだ


道路端には、能代でもおなじみの赤いペンキを塗った杭があった。国有地との境界石だ。

看板に書かれた言葉は
「悠久のクロマツ林を、子どもたちへ託す。」

万里の松原に親しむ会の活動の拠点に到着
万里の松原交流施設 フォレストパル=森のともだち
ログハウス入り口には掲示板もある
ログハウス内部



大震災の津波で一本松だけが残った「高田松原ものがたり -消えた高田松原-」という小冊子も置かれていた

近くにはトイレも
ここで酒田の皆さんと一緒に記念撮影



ひと休みしたあと、また林内へ





ここはあやめ園だが、その後方は手を加えていないためヤブと化している。手をくわえる場所と、自然のままにする場所をハッキリと区別しているのだそうだ。

ヤマブキもあった



この後ろは全くのヤブと化していた

ここは市道





サンショウ
カスミザクラ



ここは植林してから10数年になる場所か?


ここも植林した場所

ニセアカシアにも標識が付いていた
このブログの冒頭に掲載した説明文はここに立っている

この「1123林班」は松林の住所表示

このように砂地が露出した場所は風の松原では見られない。
遊具もあった
ここからマイクロバスに乗り込み昼食会場へ

途中、松苗を育てている場所を通った バス内から撮影

昼食会
昼食終了後に万里の松原に親しむ会の人たちと交流会
いろいろなお話を聞き、とても参考になった。風の松原に守られる人々の会では、林内で作業する場合は参加者はほとんど男性だが、万里の松原に親しむ会の場合は、女性の参加者が多いこと、作業だけでなく、親睦活動も多く行われていることを知った。

交流会のあとは山居倉庫の見学
ケヤキ並木を歩いていたら、先ほどの昼食会場が並木の隣にあった
帰る時には皆さんが見送ってくれた
三沢会長さんは、自宅が能代に向かう途中なのでバスに乗車
三沢さんありがとうございました
鳥海山もハッキリみえた

バス車内では万里の松原の感想を話し合った
17:38 10月末なので外は真っ暗
2016年秋に亡くなった淺田さんもこの時はお元気だった

憧れの虹の松原2015年11月14日 10:55

今日の朝日新聞be「みちのものがたり」に唐津街道が掲載されていた。タイトルは
「無謀な戦争の傷痕を探して」

この案内図は朝日新聞2015.11.14日のbe紙面をコピーして掲載した。
今から10年前、2005年11月19日(土)にNHK総合テレビ「環境新時代 地球大好き」というシリーズで「佐賀発 白砂青松が消えていく」が放映された。
私は、退職した翌年で、毎日風の松原を歩いている時だったので、この番組には感銘を受けた。
その様子をホームページ「風の松原案内」のなかの「松原の危機」というページで紹介している。改めてホームページ「風の松原案内」を読み返してみた。左側に掲載されている「目次」の「広葉樹の侵入」や「松くい虫被害」なども「佐賀発 白砂青松が消えていく」の画像を利用して作ったページだ。

こちらは今日(2014.11.14)の朝日新聞に出ていた鏡山展望台から見た唐津湾の様子。海に面した緑色が松林だ。

「無謀な戦争の傷痕を探して」はこういう文章で始まっている。
「---」で囲まれた部分が朝日新聞からの引用部分

---「戦争の傷痕を探すため、松が連なる緑のトンネルを歩いた。道の名は唐津街道。日本三大松原に数えられる佐賀県唐津市の「虹の松原」を4.5㌔ほどにわたって貫いている。
 傷痕とは、ものの例えではない。戦後70年の世から見ると、日本軍の無謀さばかりが目につくあの戦争で、払底していた航空燃料を作ろうと松ヤニを採取するためにつけられた傷痕が、今も松の木に残っているというのだ。---
 
 と書き始めている。
NPO「KANNE」の人たちと細い径を20分ほど歩いて写真の場所に着いたそうだ。
この写真は、直径40センチくらい、樹齢100年くらい。縦に1本切り込んだ傷に向け、左右から斜め45度ぐらいの角度で、幾重にもV字形の傷が刻まれていた。

---沿道で暮らしてきた脇山さんは、幼い頃に見た松ヤニを取る仕掛けについての記憶を話してくれた。松の縦の傷から金属板で松ヤニを導き、下に置いた一斗缶にためていた。「中にはあめ色の松ヤニがたくさん。上澄みは白く固まっていました。---

---「虹の松原」を見守ってきた佐賀大名誉教授の田中明さん(71)は傷痕に興味を持ち、調査をしたことがある。2004年春頃の時点で、約60本の松に傷痕を確認した。「傷痕は、直径約40センチの樹齢100年ぐらいの木に集中していました。勢いのある木が選ばれたようです。---

第二次世界大戦末期には、この松林でも能代と同じようなことが行われていたのだ。

下の画面は、風の松原に守られる人々の会の記念誌の11ページ。
このページも、先に書いたホームページ「風の松原案内」で読むことができる。目次から「クロマツ関連書籍」を開き、「守られて300年 この緑を未来へ 風の松原」という小冊子を探すと、右端に黄色地にPDFというリンクがあるので、そこをクリックすると表示される。

この写真は2015年11月16日撮影の「風の松原のアリ地獄」
説明板もほとんど読めなくなっている。

先ほどまで引用した記事の最後に「本当に松の油で飛行機が飛んだのでしょうか」という言葉があった。
能代では、「松の根っこを掘り集めて、釜で煮て松根油を作り、どこかに運ばれていったが、飛行機が飛んだという話は知らない」となっている。

「国民が搾り出した油の行方」(2面のタイトル)

朝日新聞の記者は、そこを調べている。

---ベルリン駐在の海軍武官から「ドイツは松の油で戦闘機を飛ばしている」との情報が届いた。情報に飛びついた海軍などが調べた結果、松根油を精製すれば、航空燃料になることが分かった。---

---1945年3月に閣議決定された「松根油等拡充増産対策措置要綱」によると、45年度には40万㌔リットルの松根油を生産する計画だった。国は国民に鉄材を供出させ、3万7千基とも言われる乾留釜を全国に配備。生産を推進した。---

---「空襲・戦災を記録する会全国連絡会義」事務局長の工藤洋三さんは、98年に公開乾留実験を行っている。終戦直後に米軍が地元山口県周南市で撮影した松根乾留施設の映像などを参考に、古い松根15㌔から4.5㍑もの粗油が採れた。---

---各地で生産された松根粗油は、近くの製油所で一次加工され、集められた。しかし、それらを航空燃料に精製できるプラントは限られている。「虹の松原」で採れた油はどこに行ったのか。
 石油戦史家の岩間敏さんによれば「当時、松根油から航空燃料を生産できる本格的な設備は、海軍燃料廠にしかなかった。三重県の第2燃料廠と、山口県の第3燃料廠だ。陸海軍は生産を地域で分担。九州は陸軍の管轄だったから、「虹の松原」の油は陸軍に渡ったはず。しかし、陸軍の研究は遅れていて、ようやく試作段階に進んだのは45年6月ごろとされる。実際に航空燃料に加工されたかどうかは疑わしい。---

---海軍燃料廠のプラントは、本格稼働直前の45年5~6月に相次いだ空襲で壊滅する。「日本海軍燃料史」などによると、終戦までに松根油から精製できた航空燃料は、第3燃料廠が空襲前に作った500㌔リットルだけだという。---

---長野市の元海軍中尉原田要さんは、松根油を混ぜた燃料で飛んだと証言する。戦争末期、教官として北海道の千歳基地で搭乗員養成にあたっていた時だった。その燃料を積んだ練習機は飛行中にエンジンが止まってしまったが、なんとか不時着したという。---

---戦争の役に立たなかった松根油だが、戦後は漁船や脱穀機を動かす発動機の燃料に使われた。国民が必死に搾り出した松根油が、無駄にならなかったことは、せめてもの救いだろうか。---

松根油ジェット機は飛んだ





夕日の松原2015年05月31日 07:00

昨日、秋田市で東北六魂祭を見たので、今朝は秋田市の夕日の松原を散策。
この看板は10年ほど前にも撮影していたが、久し振りに見ると林の中に埋もれた感じ。
この看板、秋田港セリオン(道の駅秋田港)と潟上市天王の道の駅天王とを結ぶ海岸道路の中間にある秋田県立大秋田キャンパス入口にある、を知っている人はどれだけいるだろうか?


こんな写真を見ると風の松原とほとんど変わりがない。
秋田キャンパスの周囲をクルマで一周したが、文学碑の場所は見つからなかった。確か10年ほど前にはこの付近の丘に佐々木久春氏の文学碑を建立したのだが。
この建物脇の駐車場にクロマを駐めて散策。午前6時にはまだ小雨が残っており、散策中の人には2人しか出会わなかった。
昨日の30℃の暑さに対して、今朝は20℃にもならない寒さ。ヤッケを着て歩いたが、寒かった。

秋田市の帰りに井川町の日本国花苑に寄り、バラ園を見ようとしたが、バラ園の門は閉じられたまま、

お昼近くなのにバラ園は閉園中。家に戻ってから井川町のホームページを見たがバラ園についての新着情報なし。
すでにほとんどのバラが咲き始めているのに、まだ5月だから開館しないのだろうか、そこで柵の間から撮影。

品種名は読み取れなかったが、この白いバラは既に満開を過ぎて散り始めていた。

これはコクテールだろう。

これは何だろうか?

これは? と次々に咲いているバラを見るが、品種札は見えない
バラ園見学を諦め、国花苑向かいの、落語家の名前がついたラーメン屋で昼食を食べてから帰途についた。ラーメン屋の方はホームページにも多数掲載されていた。

大館市バラ園は6月6日~21日開園ということもわかった。

県立大学の松 実験林?2006年08月30日 12:44

県立大学の松
 
 県立大を抜けて自治研修所(潟上市天王町)ではなく、秋田市内方面に進めば佐々木久春さんや滝さんの文学碑があるはずだと思いながら時計を見ると、あまり余裕はない。

県立大の駐車場にクルマを駐め辺りを見回すと、写真のような松が目についた。何かの実験をしているのだろうか。

夕日の松原2006年08月30日 12:40

夕日の松原
 昨日と今日の二日連続で秋田の講演会に出席。演題は「種播く人を読む」北条常久先生の講演は面白い。実際に小牧近江や今野賢三などと親しく会ったことのある人が語るのだから真実味がある。

 昨日の投稿に、そこは「夕日の松原」と呼ばれています、とカシワくんからコメントがあったので、それなら看板が出ているはずだ、と注意しながら運転していたら看板があった。なんと県立大入口の真向かいだった。何度も通っているのに気付かなかったのは運転に熱中していたためか。こういう通行量の多い車道に立てる看板にはもっと工夫が必要だろうと思いながら途中からクルマを引き返した。

森林と暮らしを守る治山事業2006年08月29日 12:24

治山事業の看板
 
 先ほどの松枯れ枝のすぐ近くに写真の看板が立っていた。
秋田県林務部とあるから、ここは県有林か?

秋田の臨海道路で松枯れ発見2006年08月29日 12:23

秋田の松枯れ枝
 
 今日は朝から雨。油断していたら涼しくて目が覚めず、気がついた時は7時半過ぎ。

 今日は秋田での講演会出席になっていたので、大潟村から若美町、県立大秋田キャンパスを通過中、目の隅を松枯れ枝がよぎった。なにも秋田市で捜さなくともと思ったが、時間に余裕があったので、秋田火力前にクルマを入れて先ほどの松枯れ枝を捜す。

 写真は臨海道路すぐ脇。目印になる看板があったので次の写真で紹介する。

ニセアカシアの変色現象(2)2006年07月20日 21:49

葉の少なくなったニセアカシア
 
 天王から船越に向かう江川付近の国道脇にも変色したニセアカシア林が見られたが、クルマを駐める余地がわからなかったので、天王グリーンランドから海岸に向かう途中のニセアカシヤ林の写真を掲載する。

 現在能代ではこのようなニセアカシアの木は見られないが、天王グリーンランド近くではこのような、葉の少ないニセアカシアが多数見られた。黄色に変色した葉が散ったためだろうと思う。

ニセアカシアの変色現象2006年07月20日 21:34

潟上市天王

 昨日(19日)寄せられたコメントに次のような言葉がありました。
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 潟上市天王や船越地区では現在ニセアカシヤが黄色に変色しております。この時期、一瞬紅葉かと思うような風景です。原因は不明ですが、マツが枯れて周辺の林分が疎林となったあたりに目立つように思います。ニセアカシヤは塩風にも弱く防風にも弱く、海岸林としては役立たずで本当に困った外来種です。
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と書かれていました。私が作成しているブログを見る場合、画面下方の小さい文字[コメント]に(1)とか(2)とか書いてあればコメントが公開されています。その場所をクリックするとコメントが表示されます。今紹介したコメントは、7月16日に書いた「ここにも倒れたニセアカシア」という記事に付けられたコメントです。

 そこで今日、秋田市のこまち球場での高校野球応援を終えたあとに天王グリーンランドに立ち寄った。新奥の細道で「緑と神話のみち」として紹介されている場所だ。実際のニセアカシアの写真は次の記事で紹介しよう。

海岸線のカシワは背が低い2006年07月07日 22:02

海岸線のカシワ林
画像番号は1997-2(撮影は2006/6/13)

 屏風山や高山稲荷まで行ったのはカシワ林を見るためだったから、このシリーズの最後もカシワの写真としよう。

 海岸まで行き、振り返って大鳥居を撮影したあと、脇の緑色を見るとそれもカシワだった。クロマツの葉は赤茶けていたが、カシワの緑は若々しい緑だ。海岸の砂地を這いながら、砂地を覆い守る生命力だ。