守られる人々の会 ― 2017年03月10日 12:29
今日は天候の急変があって晴れたり雪が降ったり吹雪いたりと大変な一日だが、朝9時には日差しがあって暖かくなる予感だった。
9時半からの三役会議に合わせてサン・ウッドへ。
11時頃まで、「風の松原に守られる人々の会」の今後について一進一退の議論を続けた。名案が出たとは言いがたいが、終わってから林内へ。
雪が溶けてくると、背の低い網フェンスがようやく顔を現した。
3月1日の松くい虫予防剤注入作業の時に気付いていたが、看板が1枚倒れていた。これは「日本五大松原」の看板
3月1日の松くい虫予防剤注入作業の時に気付いていたが、看板が1枚倒れていた。これは「日本五大松原」の看板
支柱が2本とも朽ちていた。私の手袋を2本の支柱が立っていた地点に置いて撮影した
場所は3月1日に2本目の樹幹注入をした場所付近
2011.3.11 ― 2017年03月11日 11:31
あの日、私はどんな写真を撮っていたのだろうと、パソコンの写真フォルダーを開いた。入っていた写真は1枚だけだった。
あの日私たちは、中央公民館2階の視聴覚室で定例会を開いていた。私は司会、会議は最終段階で、4月総会の内容を確認すれば終了するというところだった。
2時46分だということはあとからわかったことだが、その時数人の携帯電話から地震警報が発信された。
地震が頻発していた時期だった。2日前の3月9日にも宮城沖を震源とする大きな地震があったばかりだった。そこで、確認してから避難しようとそのまま会議を続けていた。公民館の人がドアを開け「すぐに避難してください」 そこで外に出た時の光景。写真は1枚だけだった。
あの日私たちは、中央公民館2階の視聴覚室で定例会を開いていた。私は司会、会議は最終段階で、4月総会の内容を確認すれば終了するというところだった。
2時46分だということはあとからわかったことだが、その時数人の携帯電話から地震警報が発信された。
地震が頻発していた時期だった。2日前の3月9日にも宮城沖を震源とする大きな地震があったばかりだった。そこで、確認してから避難しようとそのまま会議を続けていた。公民館の人がドアを開け「すぐに避難してください」 そこで外に出た時の光景。写真は1枚だけだった。
今日、同じ場所に立った。雪はあの日よりも多い。
太陽発電パネルが設置されたことだけが違う。今日も市県民税申告が行われていたはずだが、その看板はなかった。
次の日、3月12日も写真は1枚だけ。テレビ画面を撮した写真だった。撮影時刻は17時13分。ほかの人たちは数日停電していたと言っていたが、我が家は12日午前中には電気が復旧していた。
3月13日の写真は夜21時19分と21時26分にパソコン画面を撮影した2枚だけだった。
この2枚は貴重な写真だ。
電気が復旧し、最初に見たテレビ画面は、仙台市荒浜が津波で全部消滅した画面だった。
荒浜在住の先輩は津波にのみ込まれたと絶望した。秋田の先輩と電話が通じた時も、仙台の様子はわからなかった。
仙台の先輩と電話が通じた時も、誰もが渡辺先輩は絶望だと考えていた。
その後、グーグルだかどこだかで、安否情報を検索出来ることを知って、私は夜通しパソコンに熱中していた。
そして先輩が、予定通りであれば海外旅行に出掛けていること、
旅行中で無事が確認できたこと、その記念すべき写真だった。
その先輩は現在首都圏の避難先に住んでいる。あれから6年だ。
その後東松島市の新田先輩も、山形からお子さんが東松島市の避難所に確認に行って無事が確認できた。
電気が復旧し、最初に見たテレビ画面は、仙台市荒浜が津波で全部消滅した画面だった。
荒浜在住の先輩は津波にのみ込まれたと絶望した。秋田の先輩と電話が通じた時も、仙台の様子はわからなかった。
仙台の先輩と電話が通じた時も、誰もが渡辺先輩は絶望だと考えていた。
その後、グーグルだかどこだかで、安否情報を検索出来ることを知って、私は夜通しパソコンに熱中していた。
そして先輩が、予定通りであれば海外旅行に出掛けていること、
旅行中で無事が確認できたこと、その記念すべき写真だった。
その先輩は現在首都圏の避難先に住んでいる。あれから6年だ。
その後東松島市の新田先輩も、山形からお子さんが東松島市の避難所に確認に行って無事が確認できた。
渟美会「花展」より ― 2017年03月12日 09:09
市民おもしろ塾 ― 2017年03月13日 21:56
11日に市民おもしろ塾が開かれた。3月11日なので意義のある会だと思って参加した。私は中ほどのテーブルに座っていたのでわからなかったが、「市民ら約30人が受講した」とあった。私が所属する団体の場合は最大で30人程だが、この会も30人程とは、能代の人口がそれしかいないのかとがっかりした。正会員が何人いるのか不明だが、年会費1,000円の賛助会員だけで100人位いると思っていたので、今回は会場である第5研修室には入れないのではないかと思って早く出掛けたのだったのに参加者の少なさが残念だった。
紹介したい内容があるのだが、画像を準備してからにしよう。
29年度の案内も
「市民おもしろ塾」が始まって、今年始めに川添幹事?が北羽新報の記事で話した「ちょこボラ」という言葉に感じて、自分も「ちょこボラやってます」と話す人が増えてきたが、このチラシでは「ちょこ活動」に変わっていた。残念だ。
チラシの裏面には実質7月までの内容が掲載されていた。
チラシの裏面には実質7月までの内容が掲載されていた。
教え子たちのブログ ― 2017年03月14日 17:59
教え子たちのブログが始まった。3月11日から始まったものだが、今のところ連日書き込みがある。クラスメートなら誰でも投稿可能なブログなので、私も話題になる写真を提供してゆこうと思っている。
しかし、昔の写真がなかなか見つからない。
しかし、昔の写真がなかなか見つからない。
私は、これまではパソコンの力を信じていて、「パソコンに保存しておけば大丈夫」と思っていたが、パソコンは紙資料よりも弱いことに気付いた。
写真を一杯撮っておけば大丈夫と思っていたのだが、フロッピーディスクに保存したものは、もう読みとるパソコンがなく、読みとれなくなっている。
パソコン自体も、最初に八幡平高原ホテルで同級会を開いた頃から何代目になっただろうか?
結局私が印刷して配った紙を持っている人がいるかどうか、皆さんに呼びかけることから始めなければならなくなった。果たして私が配った数十年前の資料を持っている人がいるだろうか?
あったとしても、パソコンプリンターで印刷した紙が今でも読めるだろうか?
写真を一杯撮っておけば大丈夫と思っていたのだが、フロッピーディスクに保存したものは、もう読みとるパソコンがなく、読みとれなくなっている。
パソコン自体も、最初に八幡平高原ホテルで同級会を開いた頃から何代目になっただろうか?
結局私が印刷して配った紙を持っている人がいるかどうか、皆さんに呼びかけることから始めなければならなくなった。果たして私が配った数十年前の資料を持っている人がいるだろうか?
あったとしても、パソコンプリンターで印刷した紙が今でも読めるだろうか?
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