2011.3.112017年03月11日 11:31

あの日、私はどんな写真を撮っていたのだろうと、パソコンの写真フォルダーを開いた。入っていた写真は1枚だけだった。
あの日私たちは、中央公民館2階の視聴覚室で定例会を開いていた。私は司会、会議は最終段階で、4月総会の内容を確認すれば終了するというところだった。

2時46分だということはあとからわかったことだが、その時数人の携帯電話から地震警報が発信された。
地震が頻発していた時期だった。2日前の3月9日にも宮城沖を震源とする大きな地震があったばかりだった。そこで、確認してから避難しようとそのまま会議を続けていた。公民館の人がドアを開け「すぐに避難してください」 そこで外に出た時の光景。写真は1枚だけだった。
あの時は桜の木の下に雪が少し残っているだけだった。

今日、同じ場所に立った。雪はあの日よりも多い。
太陽発電パネルが設置されたことだけが違う。今日も市県民税申告が行われていたはずだが、その看板はなかった。


次の日、3月12日も写真は1枚だけ。テレビ画面を撮した写真だった。撮影時刻は17時13分。ほかの人たちは数日停電していたと言っていたが、我が家は12日午前中には電気が復旧していた。

3月13日の写真は夜21時19分と21時26分にパソコン画面を撮影した2枚だけだった。

この2枚は貴重な写真だ。
電気が復旧し、最初に見たテレビ画面は、仙台市荒浜が津波で全部消滅した画面だった。
荒浜在住の先輩は津波にのみ込まれたと絶望した。秋田の先輩と電話が通じた時も、仙台の様子はわからなかった。
仙台の先輩と電話が通じた時も、誰もが渡辺先輩は絶望だと考えていた。
その後、グーグルだかどこだかで、安否情報を検索出来ることを知って、私は夜通しパソコンに熱中していた。

そして先輩が、予定通りであれば海外旅行に出掛けていること、
旅行中で無事が確認できたこと、その記念すべき写真だった。
その先輩は現在首都圏の避難先に住んでいる。あれから6年だ。

その後東松島市の新田先輩も、山形からお子さんが東松島市の避難所に確認に行って無事が確認できた。