葬儀参列 ― 2017年03月06日 18:13
今日は葬儀参列のため秋田へ、途中道の駅で休憩
会場はベルコ会館 カーナビではシテイホール秋田と表示されていた。
葬儀が始まる前、友人代表の軽部さん(小学校から大学の研究室まで同じ)が故人の遺影に見入っていた。弔辞でどんなことを話したか思い出して書いておこう。
軽部さんは「70年近くに及ぶ友人」と話していたから、幼い頃から将軍野の松林を走り回っていたり高清水公園で遊んだ親友なのだろう。中学校での理科の先生との出会い、学校に実験室が出来たことで、いろいろな実験を教わったことが化学へ向かうことになったことなど。
軽部さんは私より1年前に退職していたから、先輩なのだとばかり思っていた。
軽部さんは「70年近くに及ぶ友人」と話していたから、幼い頃から将軍野の松林を走り回っていたり高清水公園で遊んだ親友なのだろう。中学校での理科の先生との出会い、学校に実験室が出来たことで、いろいろな実験を教わったことが化学へ向かうことになったことなど。
軽部さんは私より1年前に退職していたから、先輩なのだとばかり思っていた。
弔辞を読んだ人は3人 2人目の人は一緒に「悠心俳句会」に入っていた方、3人目は教え子代表のお医者さん。
そういえば当時の二ツ井高校で英語を教えていた片岡さんは朝日新聞の歌壇で何度も短歌が掲載されている。商業を教えていた加藤さんは川柳で秋田県を代表する存在になっている。
そういえば当時の二ツ井高校で英語を教えていた片岡さんは朝日新聞の歌壇で何度も短歌が掲載されている。商業を教えていた加藤さんは川柳で秋田県を代表する存在になっている。

3人の弔辞が終わったあと、「ここでご会葬の皆様にお伺いします。ご会葬の皆様で弔辞またはお別れのことばをご準備なさっている方がおりましたらどうぞ……」能代では聞いた事がない進行だった。能代では僧侶がそんなことを許す筈がない、ベルコさんの営業方針なのだろうか、それともこの僧侶の発案?
式場前には故人の若い時の写真が掲示。この写真は式場でもスライドにして紹介されていた。
式場前には故人の若い時の写真が掲示。この写真は式場でもスライドにして紹介されていた。
秋田市の葬儀に参列したのは3回目。前2回は農協会館近くの会場だったが、その時は倫勝寺住職山田欅庵さんの巨大な書が飾られていた。
今回は能代高校第31代校長先生の葬儀なので、能代関係の人に会えるか?と思っていたが、葬儀の最後に僧侶が挨拶。自分も能代高校の卒業生と話していた。
今回は能代高校第31代校長先生の葬儀なので、能代関係の人に会えるか?と思っていたが、葬儀の最後に僧侶が挨拶。自分も能代高校の卒業生と話していた。
「もしや」と思ったのでお斎の時に聞いてみると、やはり二ツ井の清徳寺の住職だった。能代高校の62期生。
こちらはお斎の時の写真
僧侶のお話では男性の平均寿命が80歳なのに73歳では早すぎる。
戒名は「慈教院正導博映居士」慈しみの深い教育者として生徒を正しく導いた人だった、博は広く、映は照らすの意。「世の中をひろく照らす人だった。
こちらはお斎の時の写真
僧侶のお話では男性の平均寿命が80歳なのに73歳では早すぎる。
戒名は「慈教院正導博映居士」慈しみの深い教育者として生徒を正しく導いた人だった、博は広く、映は照らすの意。「世の中をひろく照らす人だった。
今日は百合の花束をいただいて来た。
一緒に暮らした義母がキリスト教の信者だったので、葬式と白百合がすぐに結びつく。キリスト教では沈香の代わりに百合の花の香りを使ったのだろうか?
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