花高90周年式典2016年10月01日 16:33

花輪高校創立90周年記念式典に参列

玄関では、参列者それぞれに応じた駐車場を示すカードを持った生徒の列

指示に従い、旧職員の場所に駐車し玄関に向かう
「表彰者 佐藤修一」の駐車場所があった。あの佐藤さん? いや佐藤さんはずーっと前に亡くなったはずだから、誰か同姓同名で活躍した選手がいたのだろうと思った

案内されて視聴覚室(第二体育館近くまで行った)に入り、袋から取り出して資料を開く


教育功労者の最初に佐藤修一の名前がある。小林久仁郎さんの前だ。音楽の佐藤修一先生に間違いない。
小林久仁郎さんは佐藤修一さんが転勤して数年してから本校に招かれた人。能代高校40期で、花輪高校から転出してから間もなく県外へ戻られたと思う。インターネットで検索してほしい。

受賞者の受賞内容紹介記事はどこにあるのだろう

この概要を読むと昔の記憶が蘇ってくる。
45年4月に赴任した私は、その年の夏休みに新田町から明堂長根への引っ越しを担当した。任命された理由は「前任校でも引っ越しがあったから」(しかし分校勤務だった私は引っ越しは知らない)
51年10月の50周年の祝賀会はマルダイで行われた。
61年10月の60周年の祝賀会もマルダイ。
平成8年の70周年は百助旅館だったか?六平さんのクラスは同級会をやったがうちのクラスではやらなかった。
平成17年10月の校舎改築竣工並びに80周年はパークホテル。終わってからクラス会実施。

ここいらまで読んだところで入場の時間となった。花輪高の体育館はやはり広くて高い。バレーコートが3面もとれるんじゃないかと思う

カメラの望遠側を最大にしてようやくステージを撮影

右隅の吹奏楽部の生徒たちの脇に写真が飾ってあった。やはり佐藤修一先生だ。
こちらは校歌演奏の様子。左端に佐藤先生の写真が見える

式次第が進んで「表彰状並びに感謝状贈呈」となった。
壇上に現れたのは佐藤修一先生の奥様佐藤郁子さん、旧姓柴田郁子先生は私と同じく昭和44年から昭和46年3月まで本校に商業科の教諭として勤務していた。
佐藤修一先生は本校に昭和41年から昭和52年3月まで本校に勤務。その後出身地区の中学校や県教委に勤務したが病気のために早世された。
佐藤修一先生が本校を離れてから60周年、70周年、80周年と周年行事が3回もあり、その都度教育功労で表彰された先生方がいたので、私は、佐藤羽修一先生は既に表彰されたことがあったとばかり思っていた。
そこで、佐藤郁子さんに会った時、「修一先生は以前も表彰されたことがあったでしょう」と話しかけた。郁子さんは「いいえ初めてです。井上先生にはほんとに感謝しています。祝賀会にも参加すればいいのですが」と話していた。

感謝状贈呈のあとは
「女学校校歌合唱・校歌斉唱」

今日の式典で一番よかったのは花輪高等女学校の校歌を生で聴けたことだった。80周年の記念品に校歌・応援歌を含めた「花高10年のあゆみ」のハイブリッドCD-ROMがあって女学校の校歌を聞くことが出来たが、今日は生で聞けたのが感激だった。

「女学校校歌合唱・校歌斉唱」の場面では、白い服装のかとれあコーラスの皆さんが1年生の後ろに整列し女学校校歌を合唱した。
この女学校校歌誕生については記念誌の中に次のように紹介されている。(下の画像をクリックすれば拡大表示されます)


これが記念誌の表紙

こちらが11年前に発行された80周年記念誌の表紙
校歌を演奏している吹奏楽部の生徒たち



校歌斉唱をもって記念式典は終了。2時10分だった。

休憩のあと記念講演
記念講演の司会進行はすべて生徒たちの手でおこなった


スポーツジャーナリスト二宮清純氏は東京オリンピックのことから話し始めた。
1964年のオリンピックは日本が成長の時期
2020年のオリンピックは成熟の時期
1964年には日本の高齢化率は6%だったが2020年は30%を超えている。1964年は効率が重視されたが、2020年は快適を求める時代など比較して話していた。

そのあとイチローを取り上げ、イチローの強さは「準備力」であると具体例を挙げて説明した。

私がメモした言葉だけを取り上げて言うと、
悩む人は強くなれるが、迷う人は弱い」

選手を次の5つに分類
超一流
一流……失敗を次に活かせる人
二流……何度も失敗する人
三流……自分の失敗に気付かない人
四流……失敗を恐れて何も挑戦しない人

良き背中を持ちなさい

2時27分から始まった講演会、3時50分を過ぎたので、そろそろ終わりだろうと思ったが、司会の女子生徒は質問の時間を設けた。もしかしたら最初から準備していたのかもしれない。




その後生徒代表の謝辞。話の内容から駅伝部?のキャプテンと感じた。
16:06二宮さん退場
そのあと退場まで時間がかかったが、私は校舎の上にあった私が新婚の頃に過ごした住宅を見たかったので、歩いて住宅を目指した。

校舎のまわりは青々とした山々
教員住宅などどこにも見えない
近所の農家の人に聞くと「あの道路の上が学校住宅のあった場所です。
県の広告が出ており、売りに出ていることがわかった。
住宅跡地から下を見下ろすと、校舎がずっと下の方に見える。
ここに住んだ1年間はm吹奏楽部の自由曲がモルダウだった。
毎日毎日朝練習でモルダウの旋律を聞いて暮らした。あの年は全国大会銀賞だったかな、あの演奏もインターネットで「花輪高校 モルダウ」で検索するとYouTubeで聞くことが出来た。

花高24期クラス会2016年10月01日 23:31

会場「茅茹荘」 難しい漢字だが「ぼうじょそう」と読む

午後6時からクラス会開会。
前回平成17年10月7日にはここではなく、近くの別の場所で実施、ここには酔ってから泊まっただけなので、あまり詳しく覚えていないが、あの時は木造ではなかったか?
部屋でウトウトしていて、電話で呼び出され、慌てて駆け付けたので、参加者全体の撮影など何もしないでしまった。写真もほとんど撮らないで、話を聞いてばかりいたので、写っている人は何人もいない。


志君から送られてきた画像を追加します



ここまで里志君の画像


幹事さんが昔の写真を何枚も持ってきていた。
これは昔、八幡平高原ホテルでのクラス会。彼女たちの話では「33歳の時のクラス会」だという。
この写真を誰が撮影したか不明だったが、「俺も参加したはずなのに写っていない」というやつがいて、彼がシャッターを切ったのだろうということになった。タイトルにs60.8.17と日付が入っていた。

そこで今回も集合写真を撮すことにした。
この写真には参加者15人全員が写っている。いったい誰が撮してくれたのだろうか? バカチョンカメラなので光線が全体に行き渡っていない。この2枚だけは写真の画面をクリックすれば拡大出来るようにした。

今回はど真ん中の自分の席に座ってばかりいたので、向かい側の女性たちだけが写っていた。モウシワケナイ。



午後9時を過ぎてお開きとなったので、花輪の「さんさ」で締めとした。

「次回をいつにするか」という話も出た。還暦を過ぎたがまだ働いている人も多い。今回参加できなかった人たちからは、「65を過ぎてからやってほしい」という意見が多かったそうだ。中にはその前に練習の意味で「プレ同級会も必要だ」という声もあり、「抜き打ちでやるかもしてないよ」という声もあった。

二次会で出掛けた場所は?
これは二次会で行った「くるみ」の屋根裏部屋?里志君の画像

2日朝、6時半から街中を散策して戻ってくると、芧茹荘に宿泊した人たちは既に食事を終えていたのでパチリ。



花輪で朝の散策<追加・訂正>2016年10月02日 09:07

 <昔、花輪で暮らした思い出を含めて書いたが、
   新たに思い出したことや追加情報がありました>

6:30 宿舎をスタート

昨夜の二次会で行った場所はここの3階だった。
RESTAURANTくるみ 
ホテルで貰った地図を掲載する。画面をクリックすると地図が拡大されるので大きくして見ていただきたい。

街角にこんな掲示板

掲示板を拡大すると小倉百人一首の札だった。昔、花輪高校で実施した校内かるた大会のことが思い出される
100枚全部あるのだろうか? 今朝1時間歩いて2枚見つけた。

国道から山の方を見ると霧で霞んでいる。あの山は桜山だったか?
小学校のある場所だけが桜山だったのか?

街路樹のこの木は何だろうか?
 「この木はハナミズキ」という情報をいただきました。
我が家のハナミズキは桜の少し後から咲くピンクのアメリカハナミズキだが、このハナミズキはどんな色の花が咲くのだろうか?

実の様子

この木の幹はこんな様子だった

左側の家は、昔は茜染め、紫紺染め看板を掲げていた。

昔ここで実際の紫紺染めの作業を見せて貰ったことがある

この小路を抜けるとパークホテル。11年前の10月にはここで祝賀会に参加したことがある。その時は最初のあいさつがなかなか終わらず、次の会場で待機していた人たちから何度も催促の電話が来た。そこで今回は祝賀会への参加は中止。なお、今回は祝賀会そのものも大湯のホテル鹿角でおこなわれた。

アーケードのある通りだったが、右と左で柱の色が違う。
左側が「しんまち」、 
右側の赤い柱が「おおまち」


大町方向に進む。田代煎餅店だ

こんな場所もある、空き店舗活用だろうか?


中央通りから駅方面を見ても霞んで見えない
これは何の像だろう?

千歳盛は花輪の銘酒 今でも花輪につくり酒屋があるのだろうか?名前は千歳盛だが、いま造っているのは大館の北麓酒造だと聞いたことがあるが?

 クラス会に参加した人のお兄さんからの伝言で「千歳盛はちゃんとお酒を造っていますよ」とのことでした。


さすが花輪、早朝のアーケード街で、浅利純子や松宮隆行に続けとばかりトレーニングしている人がいる
街に子どもたちの像がいくつも立っている。
この付近に浅利書店とかレストランマルダイがあったはずだが。
今はどうなっているのだろうか。

昔のままの家が残っている。これも酒屋さん?
たしか、この酒屋さんで、「松崎先生の結婚を祝う会」に参加したことがある。ここでは「松風」という銘柄のお酒を出していたと情報をいただいた。

これが造り酒屋だった関善酒店 銘酒「花正宗」「鹿角」などを造っていたという。

ここは現在は関善賑わい屋敷とかにぎわい館とかいわれていて内部を見学できるはず

「関善にぎわい屋敷」の画像をいただいた。



この障子は、瞬間的に変えられるという


これは客間?

この部屋には上部に大きな窓

上の部屋を2階から見下ろすとこのように見える。明かり取り入れの工夫だろうか?

屋根裏には天体観測の部屋


ここから朝の散歩の続き

ここは現在の住まいか
「酒粕あります」の表示があった

細谷肉店さん

ここには有名な水がある。「御伊勢堂」
今朝も軽トラにペットボトルを沢山積んで水汲みに来ていた人がいた

向かい側に「腕白ハウスという建物があった。敷地が広くないので「小児科医院」かと思ったが、ちょうど家の前を掃いていたおばさんに聞くと「保育園です」

根本呉服店
舟場三区の下宿の近くに同じ名前の店があった。あそこが引っ越してきたのだろうか?

関安さん 建築に工夫を凝らした目立つ建物が多い

ようやく新田町の井戸までやって来た
中に何かをおいてあった。よく見ると「あけび」水に晒しておくと食べやすくなるのだろうか?

この井戸のとなりが花輪高校の通学路



この急な坂道を上って学校まで行こうとしたが、細谷肉店さんのところで7時のサイレンが鳴っていたから、途中で諦めて帰途についた。
帰ろうと振り返ると急坂であることがよく分かる。
当時は車で通う先生は、ベレットの柴田正昭先生(英語)、国語の佐藤基先生。美術の小田原先生と数える程しかいなかったが、今もこの急坂を登っているのだろうか

坂を下りおりると向かいの家にこのポスター。花輪ばやしの屋台は舟場元町のものだった。私が下宿当時に引っ張った舟場三区が今は舟場元町というのだそうだ。そこで舟場三区までいってみることにした。

途中、この場所のあたりに山本君の下宿があったはずだ。

向かいには、私が花輪に下宿してすぐに石油ストーブを買った菅原電気店があった。

国道の交差点。当時は高井田線と呼んでいた。左に曲がれば道の駅に向かう。真っ直ぐ進めば尾去沢。右角の建物には昔は「田村呉服」と看板が掛かっていたはず。

観光タクシーが見えてきた。左に曲がれば旧花輪高校の校門と枝垂れ桂の大木が見えるはずだったが、散歩している時はすっかり忘れていた。

昔の家がそのまま残っていた。これは他のクラスの生徒の家?

その隣には「おだぎり呉服店」があった。私のクラスの生徒の家だったのでよく覚えている。看板がひらがなで書かれていて「た」が「に」のように見え、「おにぎり呉服店」と読み違えたことがあった。おだぎり呉服店はなかった。
代わりに大きな構えの勝田呉服店があった。
私が下宿していた当時この通りに呉服屋さんが3軒もあったのだ。
3月末に花輪高校に赴任が決まるとすぐに学校にあいさつに来た。下宿を探して貰うためだ。
相手してくれた事務官から「場所は花輪がいいですか、それとも尾去沢」と言われ、「花輪でも遠いのに更に遠い隣町まで行くのは嫌だ」と思い「何とか花輪で探してください」とお願いした。どこかに電話していたようだったが、「それでは見に行きましょう」と言われて、勝田呉服店の脇を右に曲がって入っていった。

道路右手に堰があり、左手には大きな家具屋さんがあった。その先を左に曲がった先に案内された下宿屋さんがあった。
行ってみるとその下宿屋の建物はまだあった。
この建物の3階の西に面した部屋が私の6畳くらいの部屋だった。
この部屋には昭和45年の夏まで住んで、下宿ごと新しい家に引っ越したので、この家がまだ残っているとは知らなかった。手前の空き地になっているところはクラス会に出席した茂雄君の家だった。

菅原商店 地元の人は「もちや」と呼んでいたが、酒屋さんでもあった。下宿のおばさんの実家。ブラックニッカもここで購入。現在は奥さんが「かづの裂くき織り」をやっているそうだ。

この一番奥に私の下宿があった。
下宿のおばさんには10月1日花輪に来て最初に会いに行った。
まもなく88歳になるそうだが昔と全く変わらずお元気だった。

下宿への道路の入口からは大きな橋が見える。これが稲村橋。この橋を渡ると尾去沢。この橋に花輪ばやしの屋台が集合することでも有名

稲村橋の由来

欄干の端にも花輪ばやしの写真

ここから引き返してホテルに向かう。すぐ近く秋北バスのターミナル

ここで2本目の小倉百人一首案内板発見

駅舎のとなりに農協会館。ここにはお葬式で何度か来たことがある

向かいは丸佐運送の事務所 昔のままだ

花輪駅 昔は「陸中花輪駅」だったが、今は「鹿角花輪駅」と名前は変わった。建物は昔のまま

花輪ばやしで屋台が10台並ぶ駅前ロータリー中央には汽車の動輪と声良鳥がいた

ようやくホテルに到着(この写真撮影時刻7:34)
といっても千歳旅館の陰になって茅茹荘の看板しか見えないが。

行事の忘れ物2016年10月03日 09:29

今朝6時の空は薄曇り、白神山地は霞んでいた。

松原では鉄棒にぶら下がっている人を久しぶりに見た

トリムランニングコースのこの白い紙は、9月24日のオリエンテーリングで使用したものがそのまま残っていた。

ここは8月ごろに指摘した駅伝大会?の石灰で書いた文字のあと。
石灰でアスファルトに書いた文字はなかなか消えない。

池のほとりではゴミ拾いか茸狩か?
家に戻る時、今度は白神の山々がクッキリと見えた。
真ん中の三角の山が真瀬岳。

自宅ではキンモクセイが満開だった

タンク車?2016年10月07日 07:58

5:53 雨雲ズームレーダーに雲が見えなかったので傘を持たずに出発。しかし雲が多い。

5:56 能代駅方向で朝日が上るのが見えた。

6:11 松原の入口にタンク車。給水車? 黄色は秋田ナンバー、青は岩手ナンバー。黄色のタンクには絵が4枚描かれていた。
また薬剤散布をやるの?

6:12 朝日が入り込んで松林は明るい。

6:16 先日「行事の忘れ物」に書いたオリエンテーリングの問題文が落ちていた。
6:25 池のほとり付近は草刈りが終わったばかりだった。昨日の作業だろうか。会議で配る資料作成で忙しく、2日間来なかった間の仕事だろう。

6:25 ひまわり畑もそろそろおしまい。夏の花だけに10月まで咲いているとかわいそうになってくる。
6:33 ここまでで1800メートル 21分だった。

6:44 先日の台風18号も佐渡沖で温帯低気圧と化し、能代では強風は吹かなかったはずだが、ニセアカシアの倒木があった。

6:58 遠くの山は霞んでいるが、雨雲は消え、今日は好天が予想される。


風の松原ゴミ拾い2016年10月07日 10:56

今日は風の松原に守られる人々の会のボランティア活動
松原内のゴミ拾い

今日集まったのは12人


整列し、3名ずつ4班に分かれて巡回する区域を決めて打合せ

1班の地図

2班地図

3班地図

4班地図

各グループが出発

いこいの広場 木製遊具コーナーの端を除草している人たちがいた。これは私たちの仲間ではなく、能代市公園緑地課に雇われている人たちだろう。

私はここから入ったが、メールがあり、その返事を書いているうちに仲間とはぐれてしまった。

防火線2号のこはじゃが色付いてきた

途中で別の班の人たちに出会ったが、ほとんど収穫?がないようだ。
今朝の散策で、「オリエンテーションの時の問題文がゴミになっている」と書いた。その問題文を誰かが枝に括りつけていた。

次の会合の準備のため、私は途中で離脱。今回のゴミの量を確認できなかったが、普段巡回していてもほとんどゴミは落ちていない。

市民文化講演会2016年10月08日 18:44

今日は朝から雨、ずーっと11月開催のある会の案内状を作成し、午後から講演会場へ
講演会の開始を待つ間に、11月開催のある会の同僚幹事に出会う。
彼 「4日発行のはずだった案内状がまだ、出ていないが・・・まだ早いから大丈夫だが・・・」
私 「今作成中だ、発行は10月10日になる」

ちょうど時間になり、まず丹波先生のあいさつがはじまった。

講演者 森本あんり氏の講演が始まった















道の駅うご2016年10月09日 18:52

今日は「道の駅うご」へ
ここは今年7月にオープンした秋田県31番目の一番新しい道の駅

愛称は「端縫いの郷」
「端縫い」とは、今で言うパッチワークのようなものだが、半端な布を縫い合わせた着物のことになるが、西馬音内の人たちが着ている着物は、その家に代々受け継がれている、ひいおばあさんの花嫁衣装だとかが使われているそうだ。

「端縫いの郷」は町役場や羽後町総合体育館に隣接した、秋田県内では、象潟「ねむの丘」やにしめ「はまなすの里」などと並ぶ大きな道の駅だった。

羽後町には西馬音内盆踊りを見に何度か来ている。昔は風土文学の研究サークルで来たのが最初だったが、年代はよく覚えていない。湯沢北高の隣にあった温泉に宿泊して、盆踊りを見たことがあった。
 その時は川か橋の辺の「弥助そば」に入ったことを覚えている。
その後、平成5年か6年に来た時は「小太郎」に入った。その時は親戚の官舎に泊まった。官舎の小路を抜けると町はずれに神馬医院があったことを覚えているが、今ではその向かいに町役場や体育館、そして今回道の駅も出来た。

そばで有名な町なので昼食はそば屋さんでと,道の駅の案内所で、「西馬音内そば処マップ」をいただいた。今回も「小太郎」に行こうとして道順を聞いた。
道の駅の案内嬢はマップを取り出して道順を説明してくれたが、その後資料を確かめていて「小次郎さんは日曜日はお休みです」となった。
そこで、11時近かったので、「それではここから一番近いそば屋を教えてください」と言って「長谷山」を紹介していただいた。
この地図を持って歩いたが、どこを歩いているのか、方向感覚が全く湧いてこない。

街を歩いていてセブン・イレブンがあったので、店員に聞いたことは「お宅さんのお店は、この地図のどこにありますか?」
店員はすぐに場所を記入してくれた。
歩きすぎていたことに気付いて、神馬医院まで戻り、今度は長谷山さんへ
そばは美味しかった

長谷山さんのパンフレットにある略図には、セブンイレブンやローソン、マックスバリューの場所が明示されていて、初めてこの町に来た人にもわかりやすい。



そこで道の駅に戻ってから
受付嬢に長谷山さんのパンフを示して、地図にコンビニを記入することを提案した。コンビニは店の看板が高いので、遠くからでもよくわかり、目印となる。

実は、今日は「盆踊りフェスティバル」を見にきたのだが、その感想はあとから書こう




06:20の文化会館2016年10月10日 13:39

今週末には6:20に文化会館前に集合する必要があるので、
今朝の会員への文書配達は文化会館の方角から開始した。
これは6:07分の写真

数人に配達して文化会館前到着は6:19分

ここにも散策に役立つ標識

しかし残念ながら地図表示が逆、実際と方角が逆、いつでの北を上にして作ればいいというものではない。南側を向いているのだから、南を上にして地図を書けばいいのに、この立て札では北が上、だから能代駅が地図右手に書かれている。

ここがバスを待つ場所

バスは東側から入ってくることになっている。6月15日には10分も早く到着した。
 週末には6:30分にここを出発することになっているが、実際到着するのは何分前になるか?
ちなみに今日の撮影時刻は6:21分。

この後、柳町、松山町、昭南町を回り、
途中でメールが入り、返信を書いたりした。返信に添付した写真はこれ、今配達中だよと書いた。

国道に出たのは7:18分


郵便局と市役所2016年10月11日 07:41

ここはアフラックの事務所?

能代郵便局でした

向かい側の能代市役所はまだ重機が残っていますが、すっかり姿を現しました

ここが車寄せ?




これは昔からある第一庁舎の玄関

市役所後ろのけやき公園にはこんなお知らせ