出来島海岸の埋没林2006年07月06日 06:16

出来島海岸の埋没林
写真撮影は2006年6月13日
  
 今朝も雨、そこで以前撮影した写真を紹介する。

 6月13日に屏風山国有林やベンセ湿原を訪問し、その様子を紹介した。それは屏風山国有林の看板、カシワ林、ニッコウキスゲの群落の3枚だけだった。
 6月24日に奥飛騨会というグループの会合に出席、近況を話し合っているうちに、17日に深浦の行合崎でニッコウキスゲの群落を見たが、まだ咲き始めだったという人がおり、私もベンセ湿原の満開のニッコウキスゲの話をした。

 ところが会員の中に高山稲荷の、広葉樹とクロマツ林の混交林の印象を語った人がいた。W氏はインターネットを見ている人だった。その時になって私は6月13日の記録を作成していないことに気付いた。そこでこのページでも紹介していこう。

 この写真はベンセ湿原の海岸。案内板では出来島海岸の埋没林として紹介されている。案内板の表示をそのまま紹介する。

 日本海に面した出来島海岸に1kmにわたって約2万5千年前の埋没林があります。樹種は、エゾマツ・アカエゾマツ等の針葉樹で、幅約30㎝の泥炭層に1~2m間隔で数千本と世界でも最大規模のものです。
 この埋没林は最終氷期(約8万~1万年前)後期の極寒期に洪水などの急激な環境変化によって針葉樹林が水没し、その根が水分により、真空パックされたため腐らずに残ったもので、同時期の地球環境や植生を知る上で貴重なものです。

立派な添え木2006年07月06日 06:23

画像番号1939-2(写真撮影は2006/6/13)

 出来島海岸埋没林からトイレのある場所まで戻って、ベンセ湿原を目指した時、右手に写真のような場所が見えた。立入禁止のくさりをつけた新しい道路だったが、植林した木の添え木がいやに立派である。添え木と苗木を結びつけている場所には黒いプロテクターまで付けている。いったい何だろうかと思い、くさりを乗り越えて中に入ってみた。

 100メートル程入った場所に、これまた立派な標柱が立っている。標柱には「屏風山山火事緑の再生記念」と書かれていた。

屏風山山火事緑の再生記念植樹2006年07月06日 06:31

屏風山_緑の再生記念植樹
画像番号は3843-2(写真撮影は2006/6/13)

 先ほどの記念植樹の様子をインターネットで調べて見ると、山火事があった年月日は不明だが、その時の山火事ではクロマツ2万本が焼失したらしい。平成16年10月24日、ボランティアの参加による「屏風山山火事緑の再生活動」で被害木のクロマツの抜き取りが行われた。

 その後、平成17年4月29日には、新しくマルバアキグミの植栽を行い、屏風山の山火事跡地復興は完成。平成18年4月30日にはミズナラ、カシワの記念植樹(700本程度)を行ったことがわかった。

 私たちが行ったのはその一カ月半後だから新しいと感じたのも無理はない。

屏風山に植樹されたカシワ2006年07月06日 06:33

屏風山_植林されたカシワ
画像番号3840-2(写真撮影は2006/6/13)

 これが当日(平成18年4月22日)植樹されたカシワです。

屏風山に植樹されたミズナラ2006年07月06日 06:34

こちらはミズナラの植栽
画像番号は3842-2(撮影は2006/6/13)

 こちらは同時に植林されたミズナラです。
 屏風山のカシワ林、高山稲荷のクロマツとカシワを交互に植えた林などがあるからこそ、火災でクロマツを失ったあとにカシワやミズナラを植えることが出来たのだろう。

 クロマツ純林が、あるいはクロマツ純林こそが松林であると考えている能代の場合ではどんな反応だろうか。

ベンセ湿原の隣にクロマツの植栽2006年07月06日 06:43

ベンセ湿原すぐ脇のクロマツ苗
画像番号3874-2(写真撮影は2006/6/13)
 
 ベンセ湿原を見終わって、もう一度埋没林を見ようと海岸に向かおうとした時、ベンセ湿原のすぐ隣に整地してクロマツを植栽している場所があった。

 ベンセ湿原に来て、ニッコウキスゲではなく、松苗を見て何か言い合っている私たちを見た人が近寄ってきて、「たしかここにも湿原があったはずだ。まもなくノハナショウブが咲き始める時期なのに、どうしてこんなことをしたんだろう」といったことを話していた。

チェスボロー号遭難慰霊碑2006年07月06日 23:27

遭難慰霊塔
写真撮影は2006/6/13です
  
 ベンセ湿原、出来島海岸埋没林を見てから高山稲荷に向かった。高山稲荷に着いたと思ったら、そこには展望台があった。その展望台には帆船の絵が描いてある。近くに案内板があった。その案内板の説明を紹介する。

   チェスボロー号遭難慰霊碑
 この慰霊碑は、明治22年10月、交易で来航中の英船チェスボロー号が、折からの防風に遭難し、西浜中ノ森沖の浅瀬に座礁大破、乗員23名中19名が波に呑まれ、4名が救助されたが、この時、怒濤逆巻く中、数人の漁師たちが生命を賭して救助に当たった。特に、その中にいた工藤はんは、瀕死の米人を自分の肌で暖め、蘇生させたという美談を讃えるとともに、あえなく異国の海に消えた19名の霊を慰めるための碑である。