憧れの虹の松原 ― 2015年11月14日 10:55
今日の朝日新聞be「みちのものがたり」に唐津街道が掲載されていた。タイトルは
「無謀な戦争の傷痕を探して」
「無謀な戦争の傷痕を探して」
この案内図は朝日新聞2015.11.14日のbe紙面をコピーして掲載した。
今から10年前、2005年11月19日(土)にNHK総合テレビ「環境新時代 地球大好き」というシリーズで「佐賀発 白砂青松が消えていく」が放映された。
今から10年前、2005年11月19日(土)にNHK総合テレビ「環境新時代 地球大好き」というシリーズで「佐賀発 白砂青松が消えていく」が放映された。
私は、退職した翌年で、毎日風の松原を歩いている時だったので、この番組には感銘を受けた。
その様子をホームページ「風の松原案内」のなかの「松原の危機」というページで紹介している。改めてホームページ「風の松原案内」を読み返してみた。左側に掲載されている「目次」の「広葉樹の侵入」や「松くい虫被害」なども「佐賀発 白砂青松が消えていく」の画像を利用して作ったページだ。
こちらは今日(2014.11.14)の朝日新聞に出ていた鏡山展望台から見た唐津湾の様子。海に面した緑色が松林だ。
その様子をホームページ「風の松原案内」のなかの「松原の危機」というページで紹介している。改めてホームページ「風の松原案内」を読み返してみた。左側に掲載されている「目次」の「広葉樹の侵入」や「松くい虫被害」なども「佐賀発 白砂青松が消えていく」の画像を利用して作ったページだ。
こちらは今日(2014.11.14)の朝日新聞に出ていた鏡山展望台から見た唐津湾の様子。海に面した緑色が松林だ。
「無謀な戦争の傷痕を探して」はこういう文章で始まっている。
「---」で囲まれた部分が朝日新聞からの引用部分
---「戦争の傷痕を探すため、松が連なる緑のトンネルを歩いた。道の名は唐津街道。日本三大松原に数えられる佐賀県唐津市の「虹の松原」を4.5㌔ほどにわたって貫いている。
傷痕とは、ものの例えではない。戦後70年の世から見ると、日本軍の無謀さばかりが目につくあの戦争で、払底していた航空燃料を作ろうと松ヤニを採取するためにつけられた傷痕が、今も松の木に残っているというのだ。---
と書き始めている。
NPO「KANNE」の人たちと細い径を20分ほど歩いて写真の場所に着いたそうだ。
この写真は、直径40センチくらい、樹齢100年くらい。縦に1本切り込んだ傷に向け、左右から斜め45度ぐらいの角度で、幾重にもV字形の傷が刻まれていた。
---沿道で暮らしてきた脇山さんは、幼い頃に見た松ヤニを取る仕掛けについての記憶を話してくれた。松の縦の傷から金属板で松ヤニを導き、下に置いた一斗缶にためていた。「中にはあめ色の松ヤニがたくさん。上澄みは白く固まっていました。---
---「虹の松原」を見守ってきた佐賀大名誉教授の田中明さん(71)は傷痕に興味を持ち、調査をしたことがある。2004年春頃の時点で、約60本の松に傷痕を確認した。「傷痕は、直径約40センチの樹齢100年ぐらいの木に集中していました。勢いのある木が選ばれたようです。---
第二次世界大戦末期には、この松林でも能代と同じようなことが行われていたのだ。
下の画面は、風の松原に守られる人々の会の記念誌の11ページ。
---沿道で暮らしてきた脇山さんは、幼い頃に見た松ヤニを取る仕掛けについての記憶を話してくれた。松の縦の傷から金属板で松ヤニを導き、下に置いた一斗缶にためていた。「中にはあめ色の松ヤニがたくさん。上澄みは白く固まっていました。---
---「虹の松原」を見守ってきた佐賀大名誉教授の田中明さん(71)は傷痕に興味を持ち、調査をしたことがある。2004年春頃の時点で、約60本の松に傷痕を確認した。「傷痕は、直径約40センチの樹齢100年ぐらいの木に集中していました。勢いのある木が選ばれたようです。---
第二次世界大戦末期には、この松林でも能代と同じようなことが行われていたのだ。
下の画面は、風の松原に守られる人々の会の記念誌の11ページ。
このページも、先に書いたホームページ「風の松原案内」で読むことができる。目次から「クロマツ関連書籍」を開き、「守られて300年 この緑を未来へ 風の松原」という小冊子を探すと、右端に黄色地にPDFというリンクがあるので、そこをクリックすると表示される。
この写真は2015年11月16日撮影の「風の松原のアリ地獄」
この写真は2015年11月16日撮影の「風の松原のアリ地獄」
説明板もほとんど読めなくなっている。
先ほどまで引用した記事の最後に「本当に松の油で飛行機が飛んだのでしょうか」という言葉があった。
能代では、「松の根っこを掘り集めて、釜で煮て松根油を作り、どこかに運ばれていったが、飛行機が飛んだという話は知らない」となっている。
「国民が搾り出した油の行方」(2面のタイトル)
朝日新聞の記者は、そこを調べている。
---ベルリン駐在の海軍武官から「ドイツは松の油で戦闘機を飛ばしている」との情報が届いた。情報に飛びついた海軍などが調べた結果、松根油を精製すれば、航空燃料になることが分かった。---
---1945年3月に閣議決定された「松根油等拡充増産対策措置要綱」によると、45年度には40万㌔リットルの松根油を生産する計画だった。国は国民に鉄材を供出させ、3万7千基とも言われる乾留釜を全国に配備。生産を推進した。---
---「空襲・戦災を記録する会全国連絡会義」事務局長の工藤洋三さんは、98年に公開乾留実験を行っている。終戦直後に米軍が地元山口県周南市で撮影した松根乾留施設の映像などを参考に、古い松根15㌔から4.5㍑もの粗油が採れた。---
---各地で生産された松根粗油は、近くの製油所で一次加工され、集められた。しかし、それらを航空燃料に精製できるプラントは限られている。「虹の松原」で採れた油はどこに行ったのか。
石油戦史家の岩間敏さんによれば「当時、松根油から航空燃料を生産できる本格的な設備は、海軍燃料廠にしかなかった。三重県の第2燃料廠と、山口県の第3燃料廠だ。陸海軍は生産を地域で分担。九州は陸軍の管轄だったから、「虹の松原」の油は陸軍に渡ったはず。しかし、陸軍の研究は遅れていて、ようやく試作段階に進んだのは45年6月ごろとされる。実際に航空燃料に加工されたかどうかは疑わしい。---
---海軍燃料廠のプラントは、本格稼働直前の45年5~6月に相次いだ空襲で壊滅する。「日本海軍燃料史」などによると、終戦までに松根油から精製できた航空燃料は、第3燃料廠が空襲前に作った500㌔リットルだけだという。---
---長野市の元海軍中尉原田要さんは、松根油を混ぜた燃料で飛んだと証言する。戦争末期、教官として北海道の千歳基地で搭乗員養成にあたっていた時だった。その燃料を積んだ練習機は飛行中にエンジンが止まってしまったが、なんとか不時着したという。---
---戦争の役に立たなかった松根油だが、戦後は漁船や脱穀機を動かす発動機の燃料に使われた。国民が必死に搾り出した松根油が、無駄にならなかったことは、せめてもの救いだろうか。---
松根油ジェット機は飛んだ
先ほどまで引用した記事の最後に「本当に松の油で飛行機が飛んだのでしょうか」という言葉があった。
能代では、「松の根っこを掘り集めて、釜で煮て松根油を作り、どこかに運ばれていったが、飛行機が飛んだという話は知らない」となっている。
「国民が搾り出した油の行方」(2面のタイトル)
朝日新聞の記者は、そこを調べている。
---ベルリン駐在の海軍武官から「ドイツは松の油で戦闘機を飛ばしている」との情報が届いた。情報に飛びついた海軍などが調べた結果、松根油を精製すれば、航空燃料になることが分かった。---
---1945年3月に閣議決定された「松根油等拡充増産対策措置要綱」によると、45年度には40万㌔リットルの松根油を生産する計画だった。国は国民に鉄材を供出させ、3万7千基とも言われる乾留釜を全国に配備。生産を推進した。---
---「空襲・戦災を記録する会全国連絡会義」事務局長の工藤洋三さんは、98年に公開乾留実験を行っている。終戦直後に米軍が地元山口県周南市で撮影した松根乾留施設の映像などを参考に、古い松根15㌔から4.5㍑もの粗油が採れた。---
---各地で生産された松根粗油は、近くの製油所で一次加工され、集められた。しかし、それらを航空燃料に精製できるプラントは限られている。「虹の松原」で採れた油はどこに行ったのか。
石油戦史家の岩間敏さんによれば「当時、松根油から航空燃料を生産できる本格的な設備は、海軍燃料廠にしかなかった。三重県の第2燃料廠と、山口県の第3燃料廠だ。陸海軍は生産を地域で分担。九州は陸軍の管轄だったから、「虹の松原」の油は陸軍に渡ったはず。しかし、陸軍の研究は遅れていて、ようやく試作段階に進んだのは45年6月ごろとされる。実際に航空燃料に加工されたかどうかは疑わしい。---
---海軍燃料廠のプラントは、本格稼働直前の45年5~6月に相次いだ空襲で壊滅する。「日本海軍燃料史」などによると、終戦までに松根油から精製できた航空燃料は、第3燃料廠が空襲前に作った500㌔リットルだけだという。---
---長野市の元海軍中尉原田要さんは、松根油を混ぜた燃料で飛んだと証言する。戦争末期、教官として北海道の千歳基地で搭乗員養成にあたっていた時だった。その燃料を積んだ練習機は飛行中にエンジンが止まってしまったが、なんとか不時着したという。---
---戦争の役に立たなかった松根油だが、戦後は漁船や脱穀機を動かす発動機の燃料に使われた。国民が必死に搾り出した松根油が、無駄にならなかったことは、せめてもの救いだろうか。---
松根油ジェット機は飛んだ
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