低気圧の被害なし2015年10月02日 17:07

朝、記念誌の袋詰め作業中に友人からメールあり。
「 おはようございます。
風が強いですが、この程度でよかったですね。
散歩しなかったですよね。」
29日午後からは散策どころではなく忙しかった。その作業は今日の午前中で終了。

午後3時過ぎ、会員への資料配達を終えてから、斎場脇から松林に入ったが、普段と変わった様子は見られない。
池は澄んでいた。しかし橋の陰に回ると、
飛んできたゴミはすべてここに溜まっていた。

このような折れ枝はほとんど見られない。

中学校も高校も放課後の時間帯とあって、トレーニングの生徒がたくさん走っていた。これは山岳部?

ジョギングコース57番付近に数台のクルマ。西部森林管理署のクルマでも陸上競技場脇に駐車して人だけが林内に入ってくるのに、これは何だろうか?
クルマが4台駐まっている。何をしていたんだろう。
この後すぐここを通りかかったrun○氏に会う。トレーニング中だった。昨日記念誌を配達に行ったことを覚えていた。

休養広場では、こはぜ? こはじゃ?が色付いていた。

天気予報は雨だが2015年10月03日 09:30

このところ天候不順。昨日は友人から「風が強いですが、この程度でよかったですね。今朝は、散歩しなかったですよね。」というメールが来ていた。
昨日の午前中までは、配布物の作業の関係で「散策」どころではなかった。
今朝は午前6時は「強雨」の予報。「雨に濡れてもいいや」と思って傘持参で出掛けた。

池のほとりのもみじは紅葉の初期段階

ここジョギングコース11番地点から見上げると、ツタの紅葉が鮮やかな場所だが、


紅葉し始めたツタも見られた

前を行く黄色のコート。見覚えがある・・

ここはジョギングコース23番地点から泊まり地側に(海側に)進んだ地点。ニセアカシアの最前線だ。

エナジアムパーク側から入ってきたおばあさん。

古い顔2015年10月06日 07:22

母校の式典など昔なじみに会う機会が多かったが、大学当時のサークルの集まりがあった。
会場の使用制限時間に近づいたころ、私に「歌唱指導をしろ」とマイクが回って来た。

「なぜ、私が・・・」というと、このサークルでは私は下から2番目の世代。いつでも最後列だ。
歌集を作っていたことから一人でも歌えると思われたらしい。

こういう歌集がある。入学した最初の仕事として、私がガリ切りをして作ったものだ。印刷は学生課の部屋でやった。今は佐藤忠良記念館になっている辺りか?それとも川内郵便局の辺りか?

その歌集に「古い顔」という歌が載っている。
最近は検索したことがないが、2年前のこの会合のあとにインターネット検索したとき、「仙台地方だけで歌われていた学生歌」とあった。
そうそう、鈴木健二アナウンサーが何かの番組で紹介したことがあった。

子供の頃に遊んでた
学生時代につきあった
いろんな友がいたけれど
みんなみんな今はない
あーあー懐かしい古い顔

夜遅くまで座り込み
笑って飲んだものだった
あの仲良しの飲み仲間
みんなみんな今はない
あーあー懐かしい古い顔

恋もしたっけすばらしい
美人だっけがあの人も
今じゃ会えない人の妻
みんなみんな今はない
あーあー懐かしい古い顔

類いのないほど親切な
一人の友があったっけ
その友さえも捨ててきた
おれはほんとに恩知らず
あーあー懐かしい古い顔

心を知った友達は
兄弟よりも懐かしい
おんなじ家になぜ君は
生まれてきてはくれなんだ

そうすりゃ今でもそばにいて
亡くなった友 去った友
奪われた友
いろいろな昔の友を語ろうに
みんなみんな今はない
あーあー懐かしい 古い顔

写真中央に座っている昭和28年度生は「これは旧制二高のうただ」と教えてくれた。
私と同期、昭和38年度生の二高出身のA君が「二高合唱部が歌っていた」といってマイクを持った。

翌朝、昨日は奥様の祭日のため参加出来なかった人がホテルを尋ねてきた。昨夜のうちに車椅子の人が山形に帰り、仙台市や大崎市に帰った人もいた。宿泊した人でも9時に川崎に向けて出発した人もおり、ホテルに残っていたのは10人。場所をロビーに移して歓談。

古い顔 22015年10月07日 09:37

昨日「古い顔」を掲載したので、今度は90周年式典を訪れた同窓会や旧職員の「古い顔」
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松原クリーンアップ2015年10月09日 10:49

風の松原に守られる人々の会のクリーンアップ活動。
今日は10時からクリーンアップを行い、終了後に懇親会実施。
私はこの後に別の会合があるので、最初だけ参加。


今日のクリーンアップは4班に分かれて行動。最初の班の行動地図。

2班の行動地図はこの部分。

3班はこの地図で説明中。

4班の人たちは既に出発した後だった。


最大の粗大ゴミはこのクルマ。昨年からそのまま。昨年はナンバープレートをぼかして紹介したが、今年はそのまま。

運転席側には雑草? いやこれは木が生えてきたのだな。

昨年はフロントガラスに市役所の注意書きがラミネート加工して張り付けてあったが、それもなくなっている。

この掲示板も粗大ゴミみたいなもの。数日掲示物が貼られていたが、それが飛び散ってしまい、その後半年は使われていない。



強風被害2015年10月10日 12:10

最近、スマホの気象警報が鳴ることが多くなった。
8日もそうだった。スマホの気象警報の履歴を遡ると10月1日、2日にも暴風警報が出ている。

これはニセアカシアの根が浮き上がっている様子。
ニセアカシアには真ん中から地中深く入り込む直根がなく四方八方に広がっている根だけなので強風に弱い。

ここ何回かの強風にさらされて浮き上がったもの。

そばで見ていた人も「隣のクロマツで支えられている」と言っていた。

離れて写すとこんな様子。もう少しで倒れてしまう。

こちらは別のニセアカシアの根元だが、やはり浮き挙がってきている。これはモグラの通った跡ではなく、根が浮き上がったものだ。

陸上競技場前から入るとトリムランニングコース200mの看板の後ろに傾いたクロマツが2本。

手前の1本目は地上1.5メートル付近で裂けて折れていた。
2本目はまだ折れてはいなかったが、これも時間の問題だ。

この地区の高齢林は、このように毎年何本かずつ折れて行く。
伊藤忠夫教授が「5十年後は雑木林」と言っていたが、「5十年も保てるか?」という思いがする。

こはぜ2015年10月10日 13:12

昨日会った人が「こはぜはジャムを作れるんですよ」と話していた。
10月2日のブログ「低気圧の被害なし」の記事の最後に「こはじゃ?」の写真を載せたのを見ていたのだろう。

そういえばこはぜを取っている人がいた写真を撮っていたはずだ。
ブログには掲載しなかったが、9月20日に撮影していた。
その日のタイトルは「泊まり地フェンスの変化」だったからテーマに合わない写真は載せないのだった。

真ん中に白い服装の人がいる。

この人が盛んにこはぜの実を採っていた。
場所は地図の上の方にピンク色で囲んだ「休養広場」というのがある。そこに高床式のあづまやがある。その場所にこの低木が10数本並んでいる。

10月10日は特異日2015年10月11日 16:34

やはり昨日10月10日は特異日だった。
もとは東京オリンピックの開会式の日。次は体育の日。いまは体育の日が10月第2土曜に引っ越したので普通の日だが、この日はいまでも天気がいい。

一日中、自宅でパソコンに向かって作業をしていて、昼食だけ中央公民館で鶴形そばを食べてきたが、すばらしい天気だった。

今日は午前中に作業があり、午後は高校野球のページ作成作業。
途中で雨が降り始めた。高校野球は青森市の球場だったが、データが届くのが遅い時があった。雨で中断していたのかもしれない。

北高記念碑はどこ?2015年10月14日 16:13

10月はほとんど番外編だ。

昨日の作業が午前様になったのが祟ったのか、サッカーが1-1で終わったためか、今朝はすばらしい天気なのに起きられなかった。

突然閃いたのが「北高の記念碑はどこに行ったか?という疑問。そこで能代松陽高校へ行ってみた。グランド前駐車場にクルマを置き、野球場を秋田病院側から入る。狭い場所もあったが、そこを抜けてレフトの裏に出ると、北高の記念碑と商業高校の記念碑が並んでいた。
左は「坂本定徳先生之像」、右は校訓碑?(名前は何というのだろう?、いつ建てられたのだろう)
側面には「平成8年12月12日 寄贈児玉吉憲」と彫られている。
正面には能代北高の校訓が彫られている。だから私は「校訓碑」と思ったが、実際にはなんと呼ばれていたのだろうか?

この記念碑の右側には商業高校60周年の記念碑や甲子園大会出場の記念碑などもある。
振り返って校舎を見ると、まだ工事中のフェンスで遮られている。

商業高校の記念碑は傾いたまま。これは明らかに仮置き場だ。私がカメラを傾けて写したわけではない。

少し離れて撮影するとこうなる。

正門に回る

正門前の通路が狭いので撮影が難しかった。

一字書あそび2015年10月15日 17:08

10月9日、友人の奥様から電話があって数年前の思い出に引き戻されることになった。話は、亡き高校同級生が平成20年(2008)に出版した1冊の本に始まった。
 一挙に5年前まで引き戻されることになり、昔の写真探しに1日以上を費やし、ようやくブログ作成となった。日付は自宅に伺った10月15日のままにしておこう。

この本には162文字が書かれている。まず最初の12文字。表紙の活が1枚目。











さらにもう2枚。

私はこの「笑」が好きだった。

彼の遺作となったのは黒。
この遺作は2013年5月18~19日の「第9回能代山本合同書展」に発表された。


しかし、その前日彼は食道癌で亡くなっていた。

葬式の式場前には私達が2011年2月13日に彼の家で飲んだときに書かれた画?も飾られていた。
絵を描いたのは同期生の大高孝雄君。1番右端に描かれている人物。
書き始めた時の武田功(右)と大高孝雄(左)

彼が最後に力を振り絞って書いたのが「癌」なのだそうだ。
余りでかい字だったので撮影方向を間違えていた。

彼は大きな文字を書くのを好んでいたと奥様は話していた。
「一字書あそび」を出版したのを区切りにして住み慣れた藤沢を離れ、郷里能代に戻って来た。

彼にこの会での講演を依頼した。能代山本地区の退職教員がほとんど参加している会である。2010年(平成22年)6月25日のことである。

彼の小学校1年の担任の先生も出席、彼に中学校で書道の手ほどきをした先生の奥様も出席した。






これは「風」という字。この字をもっと大きく書いた額があったはずだと奥様が言っていたが見当たらなかった。

この字を書いた訳を詳しく話していたが、記録していたパソコンの方が破損し、講演内容が残っていない。

この講演が好評で、翌年の会でも「書の心2」を講演したが、その時は私は招かれなかったので、記録はない。