人間ドックその22017年02月23日 15:21

このホテルに泊まるのは2度目。前回は2階か3階だったので
外の景色はほとんど見えなかったが、今回は9階東側。
窓ガラスが針金入りだったが、どうにか撮影出来た。

夕食時には定食の写真撮影をすっかり忘れていた。翌日朝に胃カメラが待っていたので、消化のよいものをと魚定食にした。「お飲み物は?」と聞かれたのでビールを頼む訳にもゆかず、明日人間ドックだからと断ったら、温かいウーロン茶を持ってきてくれた。

「時間がいっぱいあるはずだ」と読む予定の雑誌数冊にインデックスシールを貼って持ち込んだのだが、結局1冊目の2~3ページで終わりになった。

ホテル1階のラジウム人工温泉はよかった
これはホテルのリーフレットに載っていた写真
部屋はバス・トイレ付きだが、ホテルの狭い空間では風呂に浸かっても味気ない。ホテルにこういう風呂が付いているとゆったりした気分になれる。
ついでにホテル内の写真をもう1枚。夕食を食べた「花々亭」だが、朝食は6:30~9:00までバイキング朝食が無料なのだそうだ。
ホテルのリーフレットをよく見ると、朝食会場は「レストラン花茶屋」、夕食会場は「食・呑み処 花々亭」というのだそうだ。
人間ドック2日目
朝6時、スマホの「コケコッコー」という目覚まし音で外を見ると銀世界に衣替えしていた。
ホテルをチェックアウトする時、ルームカードを返すだけで支払いはないのだが、部屋の料金を聞くと「7,250円です」の答え。
ホテルの「INFOMATION」に書いてあった「客室料金」によると7,250円は「コンフォートシングル」の料金だった。
退職してからあちこちで「人間ドック」を受けてきた。
人間ドックに関する綴りをみると、
現職の時に42歳から、東北中央病院という山形市の教職員関係の「公立学校共済組合東北病院」というところで年1回の人間ドックを受けていた関係で、最初は東北中央病院で受診。
現職の時には6月開始だったが、退職してから4月と5月は退職者用となっていることを知った。
そこで、山形県の一本桜の名所、置賜地方の桜が咲く時期や、べにばなが満開の頃、福島県の三春滝桜の開花時に合わせて日程を申し込んだ年も多い。

その後、山本組合病院で宿泊ドックや日帰りドックを受けた年もある。
その後、脳の検査だけは秋田県立脳血管研究センターに変更、2011年には2月中に申し込んで、3月17日に受診予定となったが、東日本大震災で停電や余震が続いたことなどもあって、その年は4月8日に変更になった。
また秋田赤十字病院で宿泊ドックを受けた年もある。2日目の朝、秋田赤十字病院の周囲や、現在は「輝きの丘」と命名されて、県立秋田きらり支援学校などが出来ている団地造成地を歩いたこともあった。

誕生日が2月なので、出来れば2月に健康状態を確認したいという気持ちだが、ある年2月始めに病院に連絡した時、病院の都合で3月実施となったが、翌日病院から電話があり、「この受診利用券の使用期限が2月末までとなっているので2月23日に変更する」となった時もあった。

今日、人間ドックに入った秋田病院の正式名称は
独立行政法人 地域医療機能推進機構 秋田病院
略称は JCHO秋田病院 (ジェイコー秋田病院)

今日、すべての検査が終わったあとに出た昼食の写真

昼食前には「栄養指導」があったが、説明してくれたMさんは、私の授業を受けたことがあるということで、彼女の担任教諭だった松田光博先生の思い出でいっとき花を咲かせた。

当時は何でも短く省略して話す風潮が始まった頃で、彼は私と一緒に職員室内で「略語を使わない運動」をやろうとしていた。その運動を「ノー略運動」という名前で始めようとしていた。

早稲田出身だが私と同年の松田先生は、その後秋田高校や秋田南高校で国語の授業を担当、退職後に早く亡くなったが忘れられない人である。

松田さんの葬儀当日は能代で別の会があり、出席できなかったので、弔電を送った。その文章が手元にあるので記録しておこう。

松田光博さん、なぜこんなに急いで旅立たれたのですか?
昼になってさきがけ新報のお悔やみ欄で松田光博という名前を見、別人であることを祈りながら、あなたからの年賀状を探しました。
新聞と同じ住所がショックでした。

98年の賀状は「赤ペン先生を自称する日々が続いております」(この頃は秋田高校勤務)
02年は「冷たい偏差値の風に吹かれて、その日暮らしに追い込まれております。3年部主任としては……」
03年は「南高に来て赤ペン先生の日々が復活しました。私には赤ペンがよく似合う?」
04年は、前年秋に私の講演会に鷹巣まで来てくださった時の感想にふれて「あの折りは愉快な午後でした。あの晩は結局ワンツースリーさんと二ツ井まで電車で一緒でした。」
05年「南高生のご学友生活をもって教壇を去ります。」
06年「三歳の愛犬と二度の散歩が私の日課です。」
07年「賑わしい教室も今は昔のような気がします。
そして今年の賀状には「しあわせなお年でありますように」と書かれておりました。
これらの賀状の文字を見ながら、能代北高校の職員室での日々を思い出しています。11月中旬には10年ぶりに開く「能代北高旧職員の集い」でお会いできる日を楽しみにしておりましたのに。
ご冥福をお祈りいたします。合掌
 (当日は教員退職員の会の幹事会があり、提案する仕事があるので最期のお別れに伺えず残念です)

あとで参列した人に聞いたら、この弔電が弔辞の最初に読まれたということでした)