能代駅から風の松原へ(1) ― 2006年06月29日 06:51

天気がいいのに薬剤散布のため松原を歩けないとすれば・・・と布団の中で考えていたが、今日は能代駅から風の松原までの案内をしようと能代駅へ。
能代駅についてまもなく通学列車が到着。女子高生たちが下りてきたが、生徒たちの姿が写らないように心掛けて写真撮影開始。風の松原に到着したときにはとても一日分(5枚)では紹介しきれない枚数になったので、これも何日かに分けて紹介しよう。
最初の写真は能代駅。ここは昔からそんなに変化してはいない。それは、駅前に勝長旅館だとかがあった大昔のことは余り覚えていない。昭和31年の大火の後、駅前が整備されてロータリーが出来てから以降は覚えている。今でも駅の右手に花壇があるが、あの花壇が最初に出来たのは私が小学5年生のとき。
駅員さんが古い枕木を利用して花壇の枠を作り、近くにあった荷馬車組合(?)から馬糞をもらってきて埋めてくれた場所に、能代図書館児童室を利用していた人たちで作った<蟻の子クラブ>の面々が毎日水やりに通った。
能代駅からの道順(2) ― 2006年06月29日 06:55

能代駅の改札口脇に写真の「駅からマップ」が掛かっている。能代駅から風の松原を通り、ハマナス画廊やはまなす展望台に行って駅まで戻る道順と所要時間を明示している案内図だが、市民には知られていない。JRを利用する人が少ないから仕方がないのかも知れない。
私は昨年だったか、この所要時間でいいのかどうか、実際に歩いてみたことがあるが、健康づくりのみちができた今、もう一度確かめてみる価値がある。ただし、この地図が掛けられている場所は、改札口を出てきた人の目にはなかなか入らない。駅の出口正面にもう一枚能代市の案内図があるのだが、こちらは都市型の案内板で、観光地重視には出来ていない。
旅行上手になるためには改札口を出たら、駅員に道順等を確かめた方がよい。駅を出てすぐ左手の交番となりに能代商工会館があるのだが、その中に観光案内所があることも知られていない。今朝はそれを案内する標識も目にしなかった。
能代駅からの道順(3) ― 2006年06月29日 06:58

能代駅前にはこのようなモニュメントが立っています。木材、七夕、バスケット、クロマツの4つが現在の能代市を紹介するためのキーワードです。
木材は昔は製材業が盛んでしたが、現在は昔からの銘木や張りマサ天井板などは縮小し、写真に出ているのは木材高度技術研究所で開発した集成材だろうと思います。
七夕は子どもの頃は単にタナバタと呼んでいましたが「ねぶながし」なのだそうです。
スポーツもまた子どもの頃は「体操競技」でした。小野喬・鍋谷鉄巳がオリンピックに出場し、能代高校体操部がインターハイで7連覇したこともあります。私が中学生の頃に能代工業バスケットボール部に猛烈な監督が就任し、能代一中のグラウンド隅に1面あったバスケットボール屋外コートで激しい練習を繰り返していたのを見たことがあります。その監督が全国制覇を成し遂げ、能代といえばバスケットと言われるようになりました。その監督加藤廣志氏は毎朝風の松原を歩いております。
そして4つ目がクロマツです。昔は単に「防風林」と言っており、全国的に最大規模のクロマツ純林だと知ったのは最近のことです。
能代駅からの道順(4) ― 2006年06月29日 07:05

この写真は駅前から真っ直ぐ正面の道路を進んだ場所です。街路樹はクロマツ。ここから風の松原まで西進する道を「松原通り」と呼んでいます。朝7時頃はほとんどクルマの通りもありませんでした。
能代駅からの道順(5) ― 2006年06月29日 07:07

先ほどのクロマツの街路樹から100mほど進むと少し右に曲がり写真の場所になります。ここからは遠くに風の松原の松並木が見えます。
手元に見える赤い花は、クロマツの根元に植栽したバラです。バラの木のすぐ左側に昔、消防署がありました。消防署には高さ30mの「火の見やぐら」と呼んだ望楼がありました。昔は毎日のように消防車の出動がありました。当時我が家はこの写真の200m程西側にありましたので、エンジンの掛かり方やサイレンの音の微妙な鳴り出しで火事かどうかすぐにわかりました。
昭和31年の大火で、この道路右側はENEOSの看板の場所から西側が焼失しました。道路左側は非焼失区域です。後の区画整理で、疎開道路と呼ばれていたこの道の角度が少し右に偏りました。そのため左側の人家は多少前に出ました。
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